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-四- おわりに

 今回のエッセイ的な小品は、私にとっての「アニメ鑑賞」(「視聴」と「鑑賞」を峻別する思考は既に外れていることに注意)、つまり「アニメを観る」行為がどのようなものであるのか、どのような意味を持つのかを、記号学や心の哲学の議論などを踏まえてできるだけニュートラルに記述しようとしたものである。一つ心残りなのは、アニメと声優の関係を一切論じることなく、アニメを映像性と記号性の二面から解剖してしまったことである。ただ、ここで言う心残りとは、時間不足や不注意のために声優という切り口から考察することができなかったということではなく、声優という切り口からアニメを考察すると全く別の議論が入ってきてしまうために全体の流れを考慮して敢えて書かなかったということに起因する。以下で、声優とアニメの関わりについて軽く触れながら、今回の文章で声優を扱わなかった理由を示そう。

 まず、声優はキャラクターヴォイス(以下CV)をキャラクター記号に吹き込むから、CVはキャラクター記号(という低次のパロール)におけるパラディグムの一つとして捉えられる。しかし、声優が人間であることを考慮するに、声優はクリエーター側に立っているようにも思われる。ここで生じてくるのは、声優をCV源としてだけ捉え、CVを他の無機質なパラディグムと並列させて論じてよいのかという問題である。声優は人間として有機的に発声しているのであり、単にキャラクター記号を支える要素として扱うには不適切であろう。声優はむしろ、原画担当や作曲担当・シナリオ担当などのクリエーターの部類に近い存在である。声優の表現行為そのものがアニメという作品(高次のパロール)になるわけで、声優はアニメの諸要素(キャラクターなど)に対してメタ的な立場にあるのである[1]。また、問題はさらに別の箇所でも生じてくる。それはすなわち、「声優オタ」(あるいは声優が好きな人)は、キャスティングされている声優本人や声優のCVに着目してアニメを観ており、彼らにとって声優(あるいはCV)とは「アニメを観る」ことを促す一種の要素であるのもまた事実なのだという問題だ。従って私は、声優とアニメの関係を今回のテーマ性の中で一義的に論ずるのは困難を極めると判断し、敢えて文章の中で詳細に取り扱うことをしなかったのである。どうかご了承頂きたい。

 アニメは日本の誇るべき文化だとか、深遠な哲学を内包したものだとかといった議論は、現前するアニメを観ている最中には思い浮かばないはずである。つまるところ私たちは、視聴-鑑賞という枠組みを離れて「アニメを観る」という営みをなしており、見終わったあとで初めて批判(これは個人的好悪に基づくものも含んでいる)というものを行っているのである。批判とは、「アニメを観る」態度の中に現れてくるものではなく、自分がアニメとの密接な関係(クリエーターの作る文脈への順応)から離れ、アニメを外から眺めるようになったとき、自ずと立ち現れてくるものなのである。それゆえ、アニメを娯楽・趣味として楽しむことと、研究・仕事として批判的に観ることは両立する、いや、そもそもその二つに明確な差異など存在しないのだと断言することができる。楽しんだら批判できないとか、批判したら楽しめないという想像は単なる妄想に過ぎない。黙って、一視聴者として、思い切ってアニメの世界に身を投じてみればよい。娯楽が研究になり、研究が娯楽になる――そんな曖昧さが、「アニメを観る」醍醐味なのだろう。

 

2009/8/11, mardi, 10:48  Rasiel

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-参考文献など-

 仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠――アイロニカルな批評宣言』(筑摩書房、2006

 多木浩二『写真論集成』(岩波書店、2003

 石田英敬『記号の知/メディアの知――日常生活批判のためのレッスン』

(東京大学出版会、2003

 石田英敬「情報記号論の諸問題」(第四回、2003/5/15) 2009/8/8 0:18確認http://ocw.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/lecture-notes/iii_01/2003-4.PDF



[1] そうであるとは言え、声優のキャスティングを監督などが行うことを考えると、声優は他のクリエーターと並び立つというよりは、他のクリエーターの下で動いているということになる。キャラクター記号に対してのメタ性を帯びる声優がさらに高次の役割から影響を受けていることに関しての議論は、よりpracticalなものでなければならないだろう。今回のように、映像性・記号性からの考察を主眼とした試論では、取り扱えない問題なのである。