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-参-「視聴」と「鑑賞」

 これまで「アニメを観る」という表現を多用してきたが、それは次のような理由による。すなわち、この行為は現実世界の物事を捉えることやTVドラマにおける感情移入とは異なる種類のものであるということを強調したかったからである。映像性と記号性を有するアニメを味わう・楽しむということには、二つの方向性があるように思える。一つは「視聴」である。それはつまり、クリエーターが誘導する方向性でのみアニメを味わう・楽しむという態度である。もう一つは「鑑賞」である。それはつまり、クリエーターの意図とは別にアニメを批判的に味わう・楽しむという態度である。この視聴-鑑賞という区別は、アニメを捉える際の娯楽・趣味-研究・仕事という二項対立構造(「はじめに」参照)に対応しているように思える。ここで改めて、娯楽・趣味-研究・仕事という二項対立構造が不十分であるという前提で、映像性と記号性によるアニメの解剖実験を試みたということを確認しよう。それに加えて前二章を通じて、アニメが多層的・重層的なパラディグム-サンタグムから成ること、特にキャラクター記号はシニフィアン-シニフィエから成ること、そして私たちの記号解釈もクリエーターによって操作されているということが示された。つまり、私たちはどんなに研究しているつもりでアニメを「鑑賞」しても、知らず知らずのうちにクリエーターの意図に引きずられて「視聴」しているのと変わらなくなってしまうのである。従ってやはり、視聴-鑑賞という態度の区別は意味をなさないということになる。単に何となく画面を眺めようが、しゃかりきになって画面を凝視しようが、結局私たちはクリエーターの意図に操られながらアニメに囚われるしかないのである。アニメを批判しようとすると大体が、個人的好悪に基づくクリエーター(あるいはその意図)自体の批判に陥ってしまうのも、「アニメを観る」私たちの態度を規定するのがクリエーターであるからであろう。

 すなわち、アニメに文脈を与えるクリエーターの意図に反した解釈を無理矢理行うことは、アニメの文脈や普通の楽しみの破壊に繋がり、結果として天の邪鬼的な強がりに終わる。敢えて誰もしないような解釈を行うという作業は「ネタ」以外の何ものでもなく、「アニメを観る」という行為とは全く別の営みである。そのような「ネタ」は私たちがクリエーターに操られていることを暴くが、その一方で私たちのアニメとの安定した関係を崩す。クリエーターはアニメの「売り手」であるから、私たちの日常感覚や一般的な考えと乖離した解釈を強いるアニメを作ろうとは思わない。というのも、私たちが違和感なく一定の解釈にのめり込むことができる作品が「売れる」のであり、クリエーターはそのような作品を作り上げることを望んでいるからである。逆に私たちも、クリエーターが推奨する解釈に従っていれば、価値観が根底から覆されるような危機的な体験をせずに済むと言える。マジョリティーの解釈は概ね正統かつ安心であるのだ。

 しかし、私たちは必ず退屈なアニメや不愉快なアニメに直面し続けるだろう。アニメを娯楽として眺めることと研究対象として精密に凝視することが結果的に同じことになってしまうとしても、解釈が必ずクリエーターに操作されてしまうとしても、私たちはアニメを評価したり批判したりしたくなってしまう。個人的好悪に基づくクリエーター批判にとどまらない批判の形はありえないのだろうか。ここで一つ実現可能な姿勢を挙げるとすれば、アニメを一定の本数見続けることによって、冷えた視線を獲得することである。毎期二十何本もある新作アニメのうち、自分が本当に心惹かれるアニメは、各人多くとも四・五本程度のはずであり、それ以外にあまり面白くないアニメを何本も観ていると、徐々にうんざりした気分になってくるはずである。そのようなうんざりした状態においては、アニメに没入している状態よりもアニメをより全体的かつ冷静に捉えることができる。楽しい・面白い一辺倒の時には見えなかった、クリエーターの意図(これは、私たちを嵌めようとしている)がクリアに認識できるようになるのである。この冷えた視線を獲得した後で、再び自分が本当に心惹かれる(と信じていた)アニメを観ると、好き一辺倒で観ていたものが相対化されて、そのアニメへの新しい評価が立ち上がってくるのである。このように、好き嫌いせずに多くのアニメを観ることによって、自分が心惹かれていると思ってアニメを観る行為は本当の意味で心惹かれているが故に生じた行為なのか、すなわち自分はクリエーター側に騙されているだけのではないのかという疑念を獲得することは、個人的好悪に基づくクリエーター批判にとどまらない批判の前提であると言える。アニメへの評価が変わってくることを経験することは、クリエーターに規定される私たちの解釈にもある程度の自由幅があることを教えてくれる。その枠内でできる限り独自の見解(学問的考察など)を述べたり、アニメ全体の構造について考えたりすることが、建設的な意味での批判となるのである。

それとは正反対に、私たちはアニメを「切る」という選択肢をとることもできる。そもそも面白くないアニメを観ない、または付き合いきれなくなった(観るのが退屈になってきた)アニメをもう観ないという態度を示すことによって、私たちは批判という枠組みから離脱することができる。この「切る」行為は、クリエーター批判に終始する営みを極限まで押し広げたものであるが、これと全段落で述べたような批判を比較してどちらが優れているという議論を行うことはできない。「切る」行為を糾弾することはできないし、適切でもない。「切る」行為も一つの姿勢として認められるべきであろう。あるいは、娯楽として観ようが研究として観ようが変わらないのであれば、楽しい方・充実している方がいいのだから、現在放送されているアニメはできるだけ多く観ようという考え方をすることもできる。せっかくだから、もったいないから、といった感じで観るアニメの本数を稼ぐ考え方もこの部類に入るだろう。また、そうやって本数をこなしているうちに嫌気がさし、冷えた視線を獲得するに至る場合もあるだろうし、勿論あってよいのである。「アニメを観る」態度はフレキシブルなものであり、常に揺らぎ移ろいゆく不安定なものなのである。私は上記のうち(あるいはそれ以外の)特定の態度が好ましいと主張する気など決してなく(もしそのような主張を堂々とするとしたら、まさに貧困な態度であると言わざるを得ない)、一人一人が観たい見方でアニメを観ればよいと思っている。

畢竟、私たちはアニメを観る際に視聴-鑑賞という二項対立構造を持ち出すのは不毛であるということだ。「アニメを観る」態度としては、冷えた視線で「批判的」に観るスタイル、批判から離脱し自分の気に入らないものは「切る」スタイル、ただ楽しみのために本数を稼ぐスタイルなど、様々な種類がある。私は半ば冷えた視線で「批判的」にアニメを観ており、半ばただ楽しみのためにアニメを観ている。つまり冒頭の私の疑問に立ち返れば、私が辛いアニメも好きなアニメも含めて画面を一心不乱に見続けるのは、単にアニメを高尚に研究しているような気になりたいからではなく、一視聴者として楽しみながら何らかの次元で批判というものを打ちたいと考えているからだということになる。この批判とは、どうしてもクリエーターに一定の解釈を迫られてしまう視聴者=私のささやかな抵抗なのかもしれない。そしてその手法は、観たアニメの感想をレビューという形で成文化することだ。私たちは忘れる動物であるから、一度観て心酔したアニメも辟易したアニメも、時間の経過とともに内容や感動を忘れていくことになる。私は結局クリエーターに操られてしまうとしても、クリエーターの手のひらの上で踊らされるだけだとしても、自分が確かにこのアニメを観ていたという記録を残しておきたい。自分がそのアニメと共にあったということを、将来の自分が確認できる状態で保存しておくことで、過去の自分の批判に対して批判を加える機会が留保されるのである。そのような移ろいゆく批判の形こそ、私が続けていきたい自由度の高い批判なのである。