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-弐- アニメの第二性質――記号性

ここからは、ソシュール(Louis Ferdinand de Saussure,1857-1913)の記号学(Sémiologie)における議論をアニメに拡張することを試みる。ソシュールは現代言語学(一般言語学)の創始者であり、20世紀の哲学・思想(構造主義や表象文化論など)に多大な影響を与えた。まず導入として、彼のシニフィアン-シニフィエについての議論と、パラディグム-サンタグムについての議論を見ていく。解説が不要である方は、アスタリスクで挟まれた箇所を読み飛ばして貰って構わない。

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ソシュールは言語を研究対象としたが、言語行為とは記号の使用であるから、つまりは記号というものについての一般理論を提出したことになる。彼は、記号は記号表現と記号内容の二つから成立しており、いずれも欠かすことはできないと考えた。そして、記号表現をシニフィアン(le signifiant)=意味するものと呼び、記号内容をシニフィエ(le signifié)=意味されるものと呼ぶ[1]。例えば、「木」という記号について考えてみよう。私たちが日本語で「木」というものを語るとき、それは/ki/という音声と//という観念を同時に使用していることになる(つまり、音声と観念は不可分である)。この場合、音響イメージ/ki/をシニフィアン、観念//シニフィエと捉えることができる。また、音声/ki/は他の音声(例えば/se/, /ri/, /za/, /wa/など)と区別されて理解されなければならない。どの音声に対しても観念//が対応してしまうのでは、「木」という記号を理解しているとは言えない。逆も同じことが言えて、//という観念は他の観念と区別されて想起されなければならない。結局、私たちの記号認識は、シニフィアン-シニフィエの両面について記号相互の区別(差異)を明確に掴み、その上で同一記号を同じものであると理解して初めて成立するものであるわけだ。そして、記号がシニフィアンとシニフィエの結合から成立するということを考慮すると、記号はものの実体ではないということになる。シニフィアン-シニフィエの結合には何の因果関係も認められない。何百年前において、音声/ki/が現在と同じ観念//に対応していたとは限らないし(勿論確かめる術などないけれども)、何百年後においても同様に、音声/ki/と観念//の対応が続いているとは限らない。シニフィアン-シニフィエの対応関係は常に一時的かつ恣意的なものなのである。

さらにソシュールは、言述(パロール)la parole=記号表現の実現と、言語体系(ラング)(la langue)=記号のシステムを区別し、パロールの規則としてパラディグムとサンタグムという二つの軸を挙げた。パラディグム(le paradigme)=範列とは、パロールの実現に際して記号の現働化を規定する記号間の「連合関係」のことであり、サンタグム(le syntagme)=連辞とは、ある記号実現の次に続く記号実現の系列を規定する「結合関係」のことである。文章は単語を最小単位として成立しており、単語は言語記号としてシニフィアンとシニフィエから成る。「私のアイドルは芹沢茜です」という文章を例にとって考えると、“|私|の|アイドル|は|芹沢茜|です|”と単語に区切ることができる。ここで、「私」は「俺」や「彼」といった別の単語と入れ替えることができるが、この入れ替えることができる単語のリストのようなものをパラディグムという。従ってメタファー(métaphore)=暗喩はパラディグム空間において成立するということになる。別の単語を使って同じ内容を表現する際の、別の単語の選択可能範囲もパラディグムなのであり、暗喩という手法はパラディグムを前提としているのである[2]。他にも、「アイドル」は「嫁」や「娘」、「芹沢茜」は「一条雅」や「蒼星石」といった単語に入れ替えることができる。「の」「は」「です」といった助詞は日本語で考えているから判断が難しいが、西欧系の言語においてはこのあたりの問題は回避することができるから、文章(これがパロールに該当する)は単語ごとにパラディグムを有していると言える。また、文章は単語を並べることによって成立するのであり、この単語の繋がりをサンタグムという。ここから分かるのは、サンタグムという「結合関係」は記号表現の実現(パロール、ここでは文章)に現前状態(in preasentia)で関与するが、パラディグムという「連合関係」はパロールに不在状態(in absentia)で関与するということである。すなわち、記号表現を支えるのは単語レベルのパラディグムなのだが、それを実現するのは言述レベルのサンタグムなのである。このパラディグム-サンタグムの考え方は様々なところに応用することができる。例えばレストランでディナーを注文する際、私たちは前菜・主菜・デザートといった形で料理を注文する。このとき、料理のカテゴリーに該当する「前菜」「主催」「デザート」をパラディグムとして捉えることができる。{前菜|a, b, c...}, {主菜|1, 2, 3…}, {デザート|α, β, γ…}といったように集合で捉えると、この集合一つ一つがそれぞれパラディグムである。そして、各集合から一品ずつ選択した結果ディナー(パロールに該当)が完成するわけだが、このときの料理の横断的繋がりがサンタグムである。

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さて、以上の議論をいよいよアニメに拡張していく。アニメがクリエーターによって描かれた静止画配列から成り立つ非連続的な(仮想・架空の)ものであることは既に述べた。アニメは何もかもが記号によって表現されており、現実世界における事物を直接的に指示するものを含まない。というのも、ソシュールの言うように記号はものの実体ではないからである。アニメが記号表現の総体である以上、アニメをパロールとして取り扱うことができる。それでは、アニメを規定するパラディグム-サンタグムとは何であるかということを考えていく。

まず、アニメを構成する諸要素というパラディグム、それを繋ぐサンタグムという構図がすぐに頭に浮かぶ。キャラクター・プロット・画風・BGMなどの複数の要素(これらはそれぞれ、入れ替え可能な範囲を持つパラディグムである)を一つに統合する(要素を並べ、繋ぎ合わせたものがサンタグムである)ことによってアニメというパロールが成立するという思考は容易に導かれるだろう。しかし、ここで諸要素自体に注目すると、実はもう一段パラディグム-サンタグムが存在しているということが分かってくる。諸要素という記号自体を低次のパロールと見なせば、その記号が持つ性質をパラディグム-サンタグムによって捉えることができるのだ。つまり、パラディグム-サンタグムはアニメの中で多層的・重層的に存在していると言える。例えば、所謂「属性」と呼ばれるものは、キャラクター記号(という低次のパロール)におけるパラディグムである。猫耳・眼鏡・アホ毛・貧乳・八重歯などの身体的パラディグム、ドジっ娘・ロリ・ショタ・ツンデレ・高飛車などの性質的パラディグム、そして姉・妹・幼なじみ・教師・看護婦などの役職(役割)的パラディグムなどの連関=サンタグムによって、一つのキャラクター記号が形成される。クリエーターは、複数のパラディグムを巧みに組み合わせることによって相乗効果を作り上げ、「売れる」キャラクター記号を形成するのである。プロット(という低次のパロール)も、学園・宇宙・家庭・異世界などの舞台的パラディグム、鬱・ギャグ・エロ・泣きなどの展開的パラディグムなどの連関=サンタグムによって形成されている。パロールとしてのプロットは、アニメ(という高次のパロール)におけるパラディグムとして機能する、すなわち他のパラディグム(上記のキャラクター・画風・BGMなど)と連関=サンタグムすることによって、一つの作品(パロール)としてのアニメを構成することになる。以上で、パラディグム-サンタグムの観点から、多層的・重層的にアニメを考察したことになる。

さらに、キャラクター記号に着目すると、シニフィアン-シニフィエの観点からもアニメを考察することができる。ここでは、現前する画像としてのキャラクター表象がシニフィアン、表象が帯びるキャラクター性がシニフィエに当たる。繰り返すようだが、アニメはそもそも非連続的な静止画から構成されているという点でTVドラマと大きく異なっている。従って、「アニメを観る」ことによって生じる情動は、TVドラマへの感情移入とは根本的に異なっていることになる。TVドラマに出演する人間への感情移入は、現実の人間に対する直接的な感情移入であり、「心の哲学」が扱う問題領域である。

現象学の創始者であるフッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)は、「自分が身体と心を持っている」という意識がある状態で、(外部にある)他者が身体を持っていることを直接把握することによって、他者も自分と同じように心を持っているのだと理解され、感情移入が生じるのだと考えた。他者の身体と自分の心が直接把握できることから、他者に心を帰属させることができるというわけである。また、20世紀後半の心理学者、バロン=コーエン(Simon Baron-Cohen, 1959-)は、心的状態を他者に帰属させる能力である「心の理論メカニズム」(ToMM : Theory of Mind Mechanism)の存在を一般的に示唆した[3]。近年の脳科学は、他者に心があると理解する能力はモジュール[4]的であると捉え、自閉症を脳機能の障害(disorder)であると考えている。

上記のような、人間に対する感情移入や他者の心の理解といったことに関する哲学的アプローチでは、「アニメを観る」ことによって生じる情動は捉えきれない。というのも、記号表現から成るアニメには、記号に関する哲学的アプローチでなければ接近できないからである。そして記号に関する哲学的アプローチとは、ソシュール記号学の解説において述べたシニフィアン-シニフィエによるものであるのだ。ここで注意したいのは、仏語におけるsigne(記号)とsignifier(意味する)の派生関係である(註釈4でも触れたが、signifiant-signifiésignifierから導かれたものである)。つまり、記号とは何かを意味するものであるということである。私たちは、キャラクターを目にしたとき、その表象(シニフィアン)からキャラクター性(シニフィエ)などを読み取っている。「アニメを観る」際、私たちはキャラクターに感情移入しているのではなく、キャラクター表象(シニフィアン)を解釈することによって主体的にキャラクター性(シニフィエ)を受け取っているのである。そして、アニメが映像というノンストップの表現手段である以上、キャラクター表象の解釈は止まることなく続けられていくことになる。いやむしろ、ノンストップの映像であるからこそ、私たちはキャラクター表象の解釈を強制されるのである。しかしここで、キャラクター表象とキャラクター性から成立するキャラクター記号がパラディグム-サンタグムからも成立していることを考慮に入れると、私たちの主体的な解釈=シニフィエの受け取りは、実はクリエーター側に操作されているということが浮き彫りになる。クリエーターは、自分の意図通りに解釈をさせるようにキャラクター記号を形成・配列し、アニメを技巧的に組み上げる。アニメがクリエーターによって文脈づけられるというのはこのことである。アニメは、ノンストップの映像性を纏うことによって、私たちに記号処理をリアルタイムで行わせ、主体的な解釈をしている気にさせる。私たちの「主体性」は、クリエーター側が製作時点でパラディグム-サンタグムに基づいて組み上げた諸要素やアニメ全体に触発された・引きずられたものに過ぎないのである。それでは、クリエーターの意図に逆らって、独自の解釈を試みることはできないのだろうか。この点について次章で考えていく。



[1] 仏語動詞signifier(意味する、英語ではsignifyに該当)の現在分詞形がsignifiant, 過去分詞形がsignifiéであることに注意。意味するもの-意味されるものという訳は、英語で言うsignifying-signifiedに対応していると考えられる。

[2] 例えば、「彼女は太陽だ」という文章を考えてみる。すると、明らかに彼女=太陽ではないから、これはメタファーである。読む人は、太陽の性質を手がかりに、彼女が明るいということだろうかとか、彼女が書き手を照らす書き手にとっての愛する人ということだろうかなどと、想像を巡らせるわけだ。その際、彼女を形容する言葉と「太陽」は同じパラディグムに属しているのである。

[3] 最初に「心の理論」というテクニカル・タームを用いたのはプリマック(David Premack, 1925-)である。彼は類人猿が他個体に心的状態を帰属させる能力があるかどうかを研究したことで有名。類人猿が心を持っているということと、他者の心を理解することができることは別問題であると彼は考えたのである。

[4] 情報を処理する専門的能力。生得的に脳の特定の領域に局在すると考えられている。例えば、運動性言語中枢としてのブローカ野や感覚性言語中枢としてのウェルニッケ野は、言語能力の局在を示唆するものである。しかし、高次の精神機能一般が全て局在論から説明されるとは限らないという批判もある。