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-壱- アニメの第一性質――映像性

第一に、アニメの映像性について考えていく。アニメが単に時間つぶしのための手段なのだとすれば――多くのバラエティー番組と同列なのだとすれば――余韻を感じたりはしないはずである。アニメはむしろTVドラマに近い性質を持っていると言える。従って、「アニメを観る」という行為について考えるには、映像作品に対するアプローチが不可欠である。アニメに文学性を求めて、アニメのプロットや台詞だけを語るのであれば、アニメはアニメでなくても、すなわち別のメディアであっても構わないことになってしまう。わざわざアニメで表現することの意味を考える際には、映像というものに対する現代的な視座も必要になるのである(映像はそもそも現代的な表現であることに注意しよう)。しかしながらアニメは、実写ではないという、TVドラマとの決定的な差異も有している。映像性を持つという点ではTVドラマに類似しているとしても、全編通して人間によって描かれた画像から構成されていることを考慮すれば(シャフトの演出[1]はここでは考えないことにする)、アニメは無数の記号から成り立っていることになる。外部の世界を無機質に切り取り、脱文脈化[2]するカメラによって作られていく一般の映像作品とは正反対に、アニメはクリエーターによって文脈を与えられた作品なのである。この点に関しては次章で詳しく述べる。そこで映像性と記号性の繋がりを示すことにしよう。

アニメは流れているように見える。無数のセル画を並べ、それらを高速で入れ替えていくことで、私たちは「音声同期型高速紙芝居」を動画として認識することができる、いや、動画としか認識できなくなる。私たちの認識を十分に超えた間隔で並ぶ一枚一枚のセル画は非連続的であるが、私たちにとっては連続的に見えてしまうのである。この「見えないからこそ見える」という関係、すなわち静止画の非連続性に連続性を見出す営みは注目に値する。ここで次のように仮定しよう。私たちが生きる現実の世界は連続性を有しており、間隙などない時の流れに支配され、アナログ的に成立している。そうだとすると、一般の映像作品を制作する過程における、脱文脈化装置としてのカメラの役割は現実世界をデジタル化するということである。無限の精度を持つアナログ量を切り刻んで(量子化)人間に知覚できない程度の一定間隔で取り出し(標本化)、そうしてアナログ量をデジタル量に変換する(A-D変換)。従って、一般の映像作品は現実世界という連続性から出発して、それを人間に認識できない程度に非連続化している(つまり、表面上は連続性を維持しているように見える)わけだ。しかしこれに対して、アニメは当初の時点で非連続性から出発して、それがあたかも連続的であるかのように思わせているのである。非連続的な世界に連続性を感じるということは、仮想の世界をあたかも現実世界と同じであるかのように理解するということに他ならない。アニメにリアリティーを感じることは、上記の営みの産物そのものなのである。この営みに関しても、能動的-受動的という二項対立的な考え方が使われがちだ。すなわち、私たちが積極的に連続性を見出そうとしているのか、それとも私たちは制作サイドによって連続的だと錯覚させられているだけなのか、という二項対立構造である。しかしいずれにせよ、アニメが仮想・架空(imaginary)のものであるという前提がある。アニメのリアリティーとは現実性とは異なっている。現実でないからこそ、仮想・架空であるからこそ、リアリティーというものを感じることができるのである(私たちは現実世界に生きているときに、「これは現実らしいなあ」とは思わないであろう)。アニメは、非連続性を帯びつつ、私たちに連続性を透視させてくれるのである。すなわち、断絶しているように思われる連続性と非連続性の二つを人間の認識能を超える製作手法(「音声同期型高速紙芝居」と上で述べたもの)によって連結するという役割を果たしているのである。

さて、ここまでの議論は全て「私たちの現実世界は連続的である」という仮定の下に進められてきたわけだが、この仮定の結果、アニメが非連続性と連続性を関係づける(結びつける)ものであるということが導かれたわけであるから、十分に有意義な仮定であったと言える。仮定や定義の十分性はその結果導かれる結果に表れるのであり、仮定や定義それ自体を問題とすることはできない。今回においても、現実-虚構の境界面に位置するアニメの姿が浮き彫りになった以上、「現実世界は連続的である」という仮定はやはり意味のあるものであった。



[1] シャフトの新房昭之監督は、実写の写真や映像などを交えた演出を施すことで有名。→「ぱにぽにだっしゅ!」「さよなら絶望先生」「夏のあらし!」「化物語」などを参照のこと。

[2] 多木浩二『写真論集成』(岩波書店、2003)を参考にした。写真は「世界の現前」をもたらし、「世界の不気味さをとりだす」のであり、「無媒介に世界を目の前に現わす」。人々が文脈を付与しているだけで、世界自体は無機質で不気味なものだ。それをそのままの形で示す写真は、世界の脱文脈化装置とも呼べるだろう。