Sec.4 私と「アニメ鑑賞」



-零- はじめに

 私は所謂「アニオタ」に分類される人間であり、週二十数本のアニメを見続けている。今回は、この「アニメを観る」という行為について考えていきたい。二十数本の中には自分があまり興味を持てないアニメも含まれるし、途中から失速するアニメも勿論含まれる。しかしながら、私はどうしてもアニメを「切る」ということができない。どうして展開・内容などが辛いアニメを見続けるのか。どうして視聴を止めてしまいたいという気持ちを押し殺してもがくように画面を見続けるのか。これらの問いに一応決着をつけることによって、アニメを凝視することの意義が見えてくるのではなかろうか。

半ば義務と化した「アニメを観る」という行為は、娯楽・趣味の領域から一歩進んで、研究・仕事の領域に到達するようにも思える。クリエーターが仕事として制作したアニメを、単に娯楽・趣味の対象として享受するのか、それとも研究・仕事の対象として批判的に再構成するのか。ただ、この二項対立[1]を語ることだけで、「アニメを観る」という行為を解き明かすことができるとは思わない。というのも、娯楽・趣味は受動的な営みであり、研究・仕事は能動的な営みであると一義的・短絡的に結論づけることはできないからであり、娯楽・趣味と研究・仕事との間に一定の連関があるようにも思われるからである。従って、この二項対立構造とは別次元の構造を考察することも必要になってくる。そこで、今回のエッセイ的な小品では、アニメを映像性と記号性の二つの観点から解剖し、上で述べた二項対立的なパースペクティヴを外すことを試みる。大胆かつ不敵な試論を展開することになるが、現段階での思考実験と考えれば辟易する内容ではないかもしれない。しばしの間、お付き合い頂きたいと思う。



[1] 正と不正(Justice and injustice)などのように、互いに正反対であると考えられる概念を並べ、それらを対抗的に論ずる手法。ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)の弁証法で大成され、ディベートの重要な考え方にもなる。全ての物事を二項対立的に捉えるのは短絡的だが、二項対立を批判すると途端に「二項対立擁護派」との間に二項対立が生じてしまうという解決しがたい矛盾が横たわっているため、未だに二項対立問題は解決されていない。




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-参考文献など-


仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠――アイロニカルな批評宣言』(筑摩書房、2006)

多木浩二『写真論集成』(岩波書店、2003)

石田英敬『記号の知/メディアの知――日常生活批判のためのレッスン』(東京大学出版会、2003)

石田英敬「情報記号論の諸問題」(第四回、2003/5/15)